私も含め経営者は人事が苦手だ

ビジネスコラム

 今日のコラムは少々長めである。私の新著『幸せは不幸な出来事を装ってやってくる』(マネジメント社)の原稿として書いた文だが没となった一節だ。私としては産み出した我が子を捨てるに忍び難く、コラムのひとつとして出しておくことにする。皆様には私の心情お汲み取り頂き読み通し頂ければ有難い。
   
 「経営者の人材採用、登用が企業の命運を左右する」

 私の小学校の先生がよく言っていた「誰とでも仲良くしなさい」という言葉がその後長く私の人生でトラウマとなった。実はもう一つあったのだ。どうかするともう一つの方が更に後の私の人生に大きな影響を与えていたかもしれない。それは「少数者の意見を大事にしなさい」というものだ。

 先日、コロナウィルス禍の流行りではないが、はじめて高校時代の同級生4人でオンライン懇談をした。決めた時間になっても操作が上手くできず入れない友人がいて、全員が揃ったのが開始1時間後だ。終了のときはどうやって消すのか分からず、互いのIT音痴ぶりに苦笑であった。そのなかで私が小学校の先生の話をすると、他の3人は学校が違うこともありそんな記憶はないとのことだった。たまたま私の担任の先生だけがそう言っていたのかもしれないということになった。

 ホームルームの時間によくバズセッションをやらされた。そのときにも必ず先生が言う。「少数者の意見を大事に、そして尊重するようにしなさい」と言ってから始めるのだ。発表の際、多数の意見を言った後必ず少数意見にはこういうのがあったと言うようになっていたのを覚えている。それでも何かを決めるときには多数決できめることになるのだが、少数者の意見をないがしろにしたような後味の悪さがいつも残ることになった。実はこの感情が後々まで私を悩ますことになる。

 「少数者の意見を大事にしなさい}という言葉を聞くといかにも正論であり間違いないことを言っていると思われる。道徳的にも倫理的にも一見正しそうに思えてしまう。しかしよくよく考えると、一方で多数者の意見を軽んじることになる。さらには、多数者の賛成で決定した事項が少数者の意見に配慮することにより歪められたりすることになる。これでは何のための多数決かわからなくなる。そのうえ少数者の声が大きいとさらに決定事項に大きな影響を与えることになる。

 会社経営をしていると経営者として決定しなければならないことが次々と出てくる。多くは即断即決できるが、なかにはどうするべきか悩むことが出てくる。その時に役員や社員の意見を聞こうとすることがある。みんなの意見が大体同じだというとき、誰かひとりがまったく違う意見を言う、さらに雄弁に大きな声で意見を言うと他のみんなが黙ってしまうことがある。あるとき、私はこのような場面で少数者の意見に同調してしまったことがある。後から考えれば魔がさしたとしか思えないが、結果大きな損失を出してしまったことがある。
 
 「大学」の中に次の一節がある。四書五経のなかの「書経」周書にある秦誓とよばれており「大学」に引用されたものである。春秋時代、秦の穆公(ぼっこう)が部下たちに誓った話だ。穆公が若かりし頃、鄭(てい)という国を多くの重臣たちが止めるのを聞き入れず出撃した。結果、ものの見事に敗れ多くの臣下を失うことになった。その敗戦から帰国した際、臣下、臣民のまえで穆公が誓った言葉だと言われている。少し長くなるが紹介しておく。
 
 「みなのもの、聴いてくれ。この度の戦の敗因はすべて私にある。この戦の無益を語り私を諫めてくれたものが多くいたにもかかわらず、私は彼らの言を挙げることがなかった。それよりも、勇ましい大きな声の者たちの言を挙げてしまったことが私の過ちであった。かつての私の周りには口先上手の者、血気盛んで戦好きな者が多く侍っていた。私には確固とした信念が無かったため、それらの者の言を良とした。今後は目立たぬとも、いつも冷静沈着で包容力があり、心が正しい者たちの言を挙げよう。これからみなと共に国を変えていこう」(超私訳)

 敗戦の将としてこれほど真摯に素直に真心から語った言葉はないであろう。私が私の判断で事を誤ったときこのような反省の弁を述べることができなかった。誠に汗顔の至りであった。経営者が部下の意見を聞くことは必要なことだが、あらかじめ自分の意見をしっかり固めたうえで部下の意見を聞くことが正解だろう。経営者が自分の意見を持たず、あるいは迷いを持ちながら部下の意見を聞くことは甚だ危なっかしい。このようなとき得てして声が大きい者の発言に引っ張られることになる。
 
 経営者がする経営判断はとても難しい。役員会で単純に多数決により決められるものではない。全役員が反対しても経営者が自分の判断を押し通すことが必要なときがある。経営判断はすべて結果責任である。戦で判断を誤れば命を失くす、国を亡ぼすことになり、経営判断を誤れば大きな損失を出し、経営を危うくする。それ故、経営者がする経営判断はまさに命がけなのだ。

 前記秦誓にはまだ続きがある。
「一人の重臣がいた。この臣は誠実で真面目であり包容力のある人物であった。誰かが優れた技能があれば我がことのように喜び受け入れ、優れた人物がいると聞けばただ口先だけで褒めるのでなく実際に受け入れる。こんな重臣がいたなら末永く国家を保つことができるであろう。ところがこれに反し優れた技能を持つ者を妬み嫉妬しこれを受け入れようとせず、優れた人物がいてもこれを邪魔し広く人に知られることが無いようにする。まして登用することなど決してしない。こんな重臣がいたなら国家の存続が誠に危うい」(超私訳)

 穆公はそれまでの自分がした人材登用について間違っていたと反省の弁を述べている。自分の側には自分の意見に賛成する者ばかりを侍らし、自分の意見に反対する者を忌み嫌い遠ざけてしまっていた。自分が遠ざけた者たちはひたすら忠実で誠実であった。自分が侍らかした者たちは優れた人物を誹謗中傷し排斥することに躍起であった。自分の人材登用の誤りが自分の判断を誤らせ国を危うくしたことを心から悔いて国民に詫びている。そして今後は真に優れた人物を登用することを誓っている。

 経営者にとっては誠に耳が痛い話である。とかく、経営者の周りには自分のいうことをよく聞くイエスマンが侍りがちである。傲慢なワンマン経営者に多い話だが、自分の意見に反対する者が許せなく思えるようだ。反対に自分の意見に賛同する者は可愛く思えてしまうようだ。経営者は自分では気を付けているつもりでも知らず知らずに気が付けば裸の王様になるものだ。

私の経験から言うと、経営者が自分で判断したうえでの失敗は諦めがつく。一方、経営者が自分で判断しきれず他者の意見を入れ判断したことが結果、失敗であったとき非常に後悔が大きい。穆公は声が大きく勇ましいことを言う臣下の言を入れ、諫める忠臣たちを遠ざけ出陣した。結果、将たちを多く失い命からがらの帰国となった。まことに後悔先に立たず、である。経営者の人材採用、登用、そして重用は企業の命運がかかっていること肝に銘じるべきである。