経営者は出処進退を誤ってはならない

ビジネスコラム

 以前お会いしたある出版社の社長の話に驚いたことがある。彼は私と同じように30才のときに父親から経営を引き継いだ。彼の父親は彼に社長を譲ると突然海外旅行に出かけたそうだ。しかも半年間クルーズ船で世界一周旅行に行ってしまった。帰国後も会社に出社することもなく、会長職も辞退していたという。
 
 経営を譲ったからには息子が全責任を負うべきなので一切口は出さないし会社からの報酬も要らないと父親が言ったそうだ。経営交代前は同じようなことを言う経営者がいるものだが、実際に交代してみると以前とあまり変わらず会長としてあれこれと経営に口を出し手も出す。このような経営者の方が現実には多いかもしれない。
 
 その出版社の社長に聞いてみると、社長就任当時は相当戸惑い右往左往する毎日だったという。いずれ社長になるとは思っていたが、まさか30才でなるとは考えてもいなかったらしい。もう10年くらいは専務として社長になるための勉強をすればいいかと思っていた。そのため、社長になるための準備など何もしておらず当初は分からぬことが多く、毎日必死で業務をこなしていた。
 
 それから15年が過ぎ、今では押しも押されぬ立派な若手経営者とお見受けした。世の中、何が幸いして何が災いするかなど分からぬものだ。後継者教育、指導などと手厚く施したとしても所詮本人次第のことが多い。元々出来の悪い後継者にいくら教えたところで馬の耳に念仏ということがある。
 
 人はどうしてもやらねばならない状況に置かれると、奮起し持てる能力を十分以上に発揮することがある。また実践こそ何にも勝る経験となることもある。この出版社の社長にとっては荒療治であったが、30才で社長を引き継いだことが何よりの教育となり得難い経験となった。
  
 機会があればその出版社の前社長に是非聞いてみたいと思う。なぜそのような無謀な無責任とも思われる経営交代をしたのだろうか。おそらく後継者である息子さんの資質を信じておられてのことだと思うのだが、父親としてどう考えていたのだろう。あまりにも潔い出処進退の所以を是非ともお聞かせ願いたいと思っている。
 
 このような経営交代がある一方で、後継者の準備ができているにもかかわらず、なかなか経営交代が実現されないケースが多くある。私がこれまで関わってきた顧問先の多くがこのケースに当たる。経営者である父親から経営交代の準備として後継者の育成、指導を頼まれる。関わってみると後継者が優秀なことが多い。
 
 もういつでも後継者に経営が代わっても大丈夫だ。そう思える企業に限ってなかなか父親が息子に譲ろうとしない。あれこれと私に息子の行状の至らぬ点を指摘してくる。その度に私は息子の後継者としての資質に問題が無いことを告げる。それに対し、さらに息子がいかにまだ経営者となるのに不備があるかを滔々と告げる。
 
 父親の話を聞けば聞くほど父親がまだ経営交代する気が無いのが分かってくる。会社の経営環境、経営者としての父親の現状、後継者としての息子の資質から判断して今が経営交代の時期だと思えるにもかかわらず残念ながら経営交代が実現されずにいる。そんなケースが数多くある。
 
 父親から子供への経営交代はまず父親の出処進退が明らかにされることから始まる。父親の出処進退が明らかでないにもかかわらず子供への経営交代を誰がいくら進言しても経営交代は行われない。父親の出処進退が明らかにされ、父親の覚悟が示されなければ事業承継など絵に描いた餅に等しい。
 
 先の出版社の父親の出処進退は実に潔い。これほど見事な進退はそう見れない。比して、譲る譲ると言いながらなかなか進退が決められない父親が多くいる。どちらがいいのか結果は時間が経たねば分からない。しかしながら一人の男として、父親としてどうあるべきか、どうあって欲しいかは歴然としている。