相克 (2011年8月12日)

敬天愛人箚記

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私たち人間の永遠のテーマの一つが親子の「相克」です。特に父親と息子の間で繰り広げられる愛憎の物語です。親子とはいえライバルであり敵であり、ときには同志でもある不思議な関係です。そして私が最も書きたくないテーマでもあります。

私の親父は昨年春92歳で亡くなりました。私が会社を潰す2週間前でした。親父が創った会社の倒産劇を見ずに亡くなったことは、私にとって一つの慰めでありました。私の親父は徳島の山村の出で、戦後、淡路島に婿養子としてやってきました。親父は戦前、大阪において建材の商売をしていたこともあり、淡路島でも同じような商売を始めました。親父は根っからの商売人でした。商売人ではありましたが、事業家でも経営者でもありませんでした。人を容易に信用できない人でした。自分の社員も一人として信用していませんでした。息子である私のことも信用していなかったと思います。

私は子供のころ、親父が苦手でした。私が物心ついたころには、外に女性をこしらえて、家にあまり帰らなくなっていました。子供の私は親父がいない生活があたりまえになっていましたから、たまに親父が帰ってくるのがいやでたまりませんでした。たまに帰る父親を母親が嬉しそうに、そわそわとして迎えるのが気に入りませんでした。父親がいないときは母親を独占できたのですから。そんな状況がずっと続きました。やがて私は京都の大学を卒業し、父親の会社を継ぐべく帰郷しました。会社を継ごうとしたのは、親父のためでなく、母親を喜ばせたい一心であったと思います。入社し親父と過ごす時間が多くなりました。親父という一人の男がだんだん分かってくるにつれ、私は親父が嫌いになりました。商売には人一倍熱心でしたが、私事においては誠実さのかけらもなく、よく平気で嘘をつく男でした。入社して間もない私は、一日でも早く私が社長になり、親父を引退させようと、心に決めていました。そして、やめろ、やめないの言い争いを続けた末、私が30歳のとき社長交代が実現しました。私が社長になってからは、さすがに一歩後ろに下がってくれていました。しかし、何分相性が悪かったのか、私のすることなすことすべてが気に入らず、かげでは随分文句を社員に言っていたようです。今思うと、親父は親父なりに私が可愛かったのだと思います。ただ、どうしても私の考えや行動が理解出来なかったのでしょう。私は最後まで親父を好きになれず、理解しようとすることを拒否していました。そしてとうとう親父と私の確執を持ち越してしまいました。次の世でまたやり直しです。

これが私と親父の相克のあらましです。おかしなもので私にはもう一つの相克ができていました。私と私の息子の間にも確執があります。私は心のどこかで自分が父親になることに恐れを感じていたのかもしれません。父親になる自信がなかったのかもしれません。父親というものが子供にどう接したらいいのか、どう扱ったらいいのか、まったく分かりませんでした。特に息子とどう向き合ったらいいのか分かりませんでした。気が付いたら、訳もなく息子に強くあたっていたり、手をあげたりしていました。そんなとき、いつも自己嫌悪に陥りました。「お父さんは僕のことがきらいなんやろか。」と息子が姉たちに聞いていたそうです。いま思えばわたしは愚かな息子で愚かな父親だったのです。私の息子は高校からアメリカに行きました。昨年、大学を卒業し、現在シアトルにいます。長い間、離れて暮らしたことが、わたしたち二人にとっていい結果になりました。今はお互いに相手のことを少しずつ理解しはじめています。わたしは息子を心から愛しています。

わたしたち人間はこうして延々と親子が相克を繰り返してきました。互いに愛し合っているのに、なぜか憎しみあったり、互いに憎しみ合っているのに、実は愛し合っているのです。そんな不思議なドラマがいつもそこ、ここで繰り広げられています。