私の先生 (2011年12月6日)

敬天愛人箚記

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いまや年末の催事のひとつにベートーベンの第九があります。なぜ年末に第九なのかについては、諸説あるようです。理由はともかく、いまではクリスマスと同じように私たち日本人にとって第九と言えば年末なのです。第九を聴いて年の瀬を越し、新年にはウィンナワルツ聴き、新春コンサートはドヴォルザークの第九「新世界より」で始まります。私の年末年始の習慣でもあります。

昨日、新宿文化センターで東京都交響楽団による第九を聴いてきました。実は私の大切なメンターが合唱団員として参加していました。演奏はオーケストラ、合唱とも十分満足な出来栄えでした。なかでもチェコ人の若き指揮者に才能を感じました。何度か聴いたオーケストラでしたが、今回の演奏は秀逸でした。指揮者が上手くオーケストラをコントロールでき、音楽は途中だれることなく最後まで緊張感が維持され、素晴らしいものでした。オーケストラは指揮者次第ということ、改めて実感しました。

さて、今日の話は私のメンターについてが主題です。昨年9月に上京して以来、私が唯一心を開いて接することができる人です。彼は私より10歳年上で、東大大学院卒の理学博士です。いわゆる学者先生です。私は彼に私のこれまでの人生を話し、いまなぜ東京にいるのか、これからどうするのかなど、いろいろ話してきました。彼は実に辛抱強く私の話を聞いてくれました。私の言葉をすべて彼が体で受け止め、受け入れてくれているのを私は感じていました。彼の表情や態度から、私に共感してくれているのが伝わってきました。そして、私の存在そのもを受け入れてもらっているという安心感がありました。これが「受容」なんだと思い至りました。

かつて、若いころの私には二人の人生の師がいました。一人は仕事上の関係がある方で、もう一人は青年会議所の先輩でした。二人とも非常に個性の強い方でした。若い私は二人に圧倒され、必死で何とか付いて行こうとしていました。一人の方には、経営者としての在り方や、特に発想力と行動力を養うことを教えられました。当時の経済状況も良かったのでしょうが、彼の打つ手がすべて成功する様子を間近で見せられ、驚くばかりでした。もう一人の方は、強烈な個性と不思議な魅力があり、存在感がありました。彼の存在感そのものがリーダーを感じさせていました。特別なリーダーシップを持ち合わせているのではありませんでしたが、不思議な人間的魅力がありました。彼のためならなんでもしようと思わせるような存在感がありました。

そして、今の私の先生ですが、彼ら二人ほどの強烈な個性を持った方ではありません。しかし、私は先生にとても広くて大きい人間性を感じています。彼は事業家でも政治家でもなく、学者先生です。風采は上がりませんが、小さいからだで、私をまるごと受け入れてくれています。私に何かを教えてくれる訳でもなく、どこかへ引っ張って行ってくれるのでもありません。私の話をじっといつまでも聞いてくれるだけです。そして、私の話にうなづいたり、相づちをうち、大変だね、大丈夫ですかなどと尋ねてくれるだけなのです。それから先生は自分の話をたくさんしてくれます。私は先生と話すことで、自分をさらけ出すことができ、私の存在を大切にあつかっていただいていることに安堵を覚えています。人は自分を理解してくれる人がいると思うだけで安心するものです。私は、今このとき、先生に出会えてとても幸せです。