継がせる者と継ぐ者

敬天愛人箚記

敬天愛人語録にもどる  
  事業継承ではリーダーシップのバトンを渡す者と渡される者がいます。それぞれが問題を抱えています。バトンを渡される後継者だけでなく、バトンを渡す経営者にも解決しなければならない問題がたくさんあります。ただし、事業継承の主役はあくまでも後継者です。事業継承がうまく行われるということは、後継者が経営者として立派に役割を果たすことができているということです。よって、後継者の育成が最も大切なのは言うまでもありません。

しかしながら、実は同じくらい大切なことが、バトンを渡す経営者の心の準備が十分できているのかということです。長い間、経営者であった者がその座を譲るということが、なかなか大変なことです。公私においてどんなときも主役であった者が、明日からただのひとになるのですから、その予想以上の寂しさは彼らにしか分からないものです。それ故に、いつまでも社長の座を譲ろうとしないひともいますし、たとえ譲ったとしてもいろいろと口を出してしまうひともいます。これではせっかくの継承もうまく機能しないことになります。

私は、30歳のとき、親父からバトンを受けました。それは今思えば、スムーズな禅譲ではなく、私からの経営譲渡の強要でありました。私が30歳のとき、親父は70歳でした。70歳といえば経営者といえども引退してもいい年頃であり、取引先や金融機関にとっても、次への継承が気になる頃です。私は一日でも早く交代することが、対外的にも社内においても安心感をもたらすことになると考えていました。しかし親父との話はうまく進みませんでした。毎日毎日、ふたりの大声を上げた口論が続きました。そんなある日、根負けをした親父が、「しゃあない。代わってもええ。」と言いました。親父曰く、「代表者二人でどうや。」、私は、「それはあかん。代表者は一人でええ。俺が代表取締役社長で親父は取締役会長になってくれ。それでないと交代する意味がない。」と譲りませんでした。それから一週間後、親父が折れてくれました。そのときの私は、親父の寂しさを思いやる余裕や優しさがありませんでした。

今、考えれば親父にすれば、私がいくつになろうと子供は子供だという想いがあり、30歳の私が頼りなく思えたのも仕方がないことだと思われます。親父自身まだまだ若いつもりであったでしょうし、社長は自分でなければという思いが当然あったろうと思います。そんな親父の気持ちを、当時の若い私は思いやるこころのゆとりがありませんでした。

私は小さいときから親父が苦手でした。仕事をいっしょにするようになって、ますます親父との相性が悪いと思い始めました。そんな私が親父に心から感謝したのは、あのとき、私にバトンを譲ってくれたことでした。説得に時間が掛かりましたが、決まった後は私にすべてをまかせてくれました。文句は相変わらず多かったですが、最終経営判断はまかせてくれていました。親父はいろんな想いを持ちながら、私の経営を見ていたんだなと、いま改めて私は感謝と申し訳なさを感じています。

私たちは、事業継承の問題を考えるとき、後継者の育成だけでなく、経営者のことも併せて考慮せねばなりません。まず、継がせようとする者のこころの準備と覚悟が必要です。経営者にとって最後の大仕事が事業の継承です。自分が経営してきた会社や仕事に未練を残すのは当然の情ですが、断ち切らねばなりません。会社と仕事から離れ、立ち去る覚悟をしなければなりません。後継者がこれからの主役であり、後継者を立派な経営者にせねばなりません。それまでの経営者としての地位や権力や特権といったものとも決別のときです。その後の自分の人生を考えましょう。どのような次の人生を送るかが、一番大切な問題になります。後継者に道を譲り、自分はまた違う道を見つけ歩き出すことが、バトンタッチをしようとしている者がすべきことです。

事業継承は継がせる者と継ぐ者のペースを合わせることから始まります。