違和感 (2012年2月20日)

敬天愛人箚記

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  私はよく何かがおかしいぞとか。何かが違うぞって思うことがあります。それはひらめきとか直観とかに通じるものかもしれません。今の日本で起こっていること、世界のなかで起こっていることに、何か変だぞとか、おかしいぞと思ったり、感じたりしませんか。そのような「違和感」について考えてみます。

まずは、原発のことです。昨年の震災直後の原発に対する国民の恐怖感や、嫌悪感、不信感といったものが、時の流れとともに少し薄れつつあります。それは私たち人間の性として仕方がないことかもしれません。しかし、震災直後に起こった放射能汚染の問題はまだ何も解決されていませんし、福島原発の状況もあまり好転しているとも思えません。完全に原子炉をコントロールできるまでには、まだまだ相当な時間が必要なようです。廃炉するまでにはそれこそ何十年とかかるそうですし、その後、跡地がどのようになるのか、たくさんの燃料棒はどのように処理するのかなど、本来私たちが知っておかなければならない情報が全く知らされていません。にもかかわらず、世の中では福島原発の問題はひとつの過去の出来事のように扱われている感もなきにしもあらずです。

日本国民の人の好さに付け込むように、なにやらすべての原発が再稼働されようとしています。ほんとうにそれでいいのでしょうか。あの愚かな管首相が唯一正しいことを言ったのが脱原発でした。震災直後の国民の意識調査では多くの国民が脱原発に賛成でした。それが今では少しずつ原発再稼働もやむなしといった風潮が感じられます。このままなし崩しに再稼働していいのかどうか、もう一度国民的議論にすべきではないかと思います。原子爆弾を二度も被爆し、原子力発電所の被災で重大な放射能汚染を経験しながら、狭い国内にたくさんの原子力発電所をこれからも稼働させようなんてとても正気な国民が判断することとは思えません。何か、どこかがおかしいです。世界のなかで、日本が積極的に脱原発を推進する国でなければおかしいです。経済的にはそうすることで代替エネルギーへの変換が早期に進み、技術開発で世界をリードすることも可能なはずです。いまの動きになにやら違和感を感じます。

次に、政治の話です。増税と社会保障の問題です。そもそも国民はなぜ増税が必要なのか、社会保障制度の実態がどうなっているのかなど、よく分かっています。政治家のへたな猿芝居をいつまで見せられるのかという、うんざりとした気分です。要は、国家の財政における収入と支出をいかに均衡させるかということなのです。誰がどう見ても日本国家の財政は支出過多で破綻しています。今以上の増収が見込めないなら、支出を減らすしかありません。消費税増税と同時に、多額の支出の減額策を実行していく以外ないのです。日本の経済が縮小しているなか、政府も同じように財政規模を縮小していくべきときです。そのことを、明確に国民に分かり易く伝えることが、いま政治家に求められていることです。そもそも日本の社会保障制度が破たんしていることは明らかです。本来、増税とは別問題です。財政そのものを立て直すための増税を自分たちの失策である社会保障の穴埋めにしようということ自体が、小手先の拙策であり、国民へのペテンでしかありません。私はなんとも言いようのない違和感を感じます。

最後にもうひとつ、大阪維新の会の国政への進出についてです。私は橋下市長の主張には大体賛同していますし、共感することも多いです。しかし、今回の総選挙への取り組みについては、何か変だぞ、おかしいぞって思っています。橋下氏が大阪府知事として、大阪府の財政改革をりっぱにやられ、次に大阪府と大阪市の二重行政の無駄を解消するため、大阪市を解体し大阪都にするという構想までは、おおいに賛成いたします。その大阪都構想実現のためには国政を動かさねば実現しないということも理解できます。そのために多くの塾生を募集し、総選挙で維新の会から300人を擁立し、200人の国会議員をつくろうとしています。ここで、私は何やらおかしいぞ、何か変だぞと、思ってしまいます。しかも自分は出馬しないらしい。私のこの言いようのない違和感はなぜなのでしょうか。ひとつ言えることは、国政と地方行政とを同じ人から語られることへの不快感と不信感とでもいうものでしょうか。本来、あなたの目的はなんだったのでしょうか、大阪都構想実現なのではないでしょうか。なにより、200人ものリーダーなきチルドレンを国会議員に送られることの恐怖を感じます。国の形をを変えるというなら、ご自分がご出馬あるべきでしょう。