経営者が決断、決定するとき

ビジネスコラム

 経営は日々、決断、決定の連続だ。長年事業経営者であった私には肯ける話だ。コロナ禍という非常事態にあればなおのこと。経営者には日々決断に迫られることばかりが起こるだろう。経営者がする決断、決定は企業の行く末を決める。企業の業績の推移を経営者の決断、決定が左右する。
 
 私は30才のとき70才の親父から経営を譲ってもらった。代表権を二人で持とうという親父を説き伏せ私ひとりが代表取締役となった。当時すでに20数億円の売り上げがあった。社長就任の前年に創業以来初めての赤字決算を出していた。3000数百万円という赤字であった。
 
 初めて経験する大きな赤字決算をしたことが親父には堪えたのだろう。頑固な親父が私への経営交代に応じた大きな原因だろう。世の中はバブルが膨らみ始めた頃、日本全国が株高、リゾート熱に浮かれ騒いでいた時代だ。私が社長に就任し3,4後にバブルが崩壊する。社長就任前の赤字は我が社だけの外部環境が影響した結果であった。
 
 淡路島という島内だけが商圏であった我が社に公共事業の特需があった。その特需が一旦休止することになる。そのことが赤字の最大の原因であった。社長就任後再び特需が再開されるが、その矢先にバブルが音を立てて崩壊し始めた。民間の投資が激減すると同時に公共投資も見直されることになる。
 
 我が社は公共工事への依存度が高く売り上げの8割を占めていた。その公共工事がバブル崩壊と同時に激減した。商圏内の公共工事が半減することになった。このままでは我が社の売り上げも半減することになる。どうすればいいのか。このまま淡路島だけを商圏にするか、島外に商圏を拡大していくか。
 
 私が下した決断、決定は島外に商圏を広く求めていくというものだった。小さな会社か、大きな会社かを選ぶ選択でもあった。物心がついた頃から親父は私を小さな車に乗せ取引先に連れて行っていた。小学校に通う頃には大きくなったら父親の跡を継いで社長になると思っていた。
 
 大学卒業後親父の会社に入った私は当初から淡路島だけでなく日本全国で商売をしたいと思うようになっていた。そんな私だからそのとき島外へ販路を求めるという決断、決定は早かった。ただ外部環境はバブル崩壊後のデフレ状況であり民間の設備投資が抑えられていた。なおかつ公共投資も控えられるというまさに我が社にとっては逆風が吹いていた。
 
 そんななか神戸市に営業所を開く。その後大阪に営業所を続けて開くことになる。それからは気が付くと沖縄から北海道まで営業所、支店を開設していた。売り上げは公共工事へ逆風が吹く中ではあったが右上がりを続けることになる。ところが115億円を売り上げたのをピークに低迷することになる。
 
 そしてなす術もなく売り上げが徐々に減少し始める。売り上げの減少が資金をショートさせることになる。私の会社はこうして倒産に至った。33才のとき、島外へ活路を求めた社長としての私の決断、決定がこのような結果を招いたことになる。もちろんそれだけではなくその後、いろいろな決断、決定を下してきた。
 
 その決断、決定のひとつひとつの是非はともかく、結果として会社が倒産したことは事実である。それ故に私には経営者の決断、決定の重要性は痛いほど分かる。しかしながら企業において経営者が決断、決定をしなければ経営が前に進まない。経営者が決断、決定をしないがために経営がおかしくなったという企業が多くある。
 
 言い換えるなら経営は経営者の決断、決定の積み重ねであり、業績の如何はその決断、決定の結果だと云える。経営者が決断できず決定がなされないのは問題がある。経営者の決断、決定の是非が厳しく問われるのは当然のことだ。経営者の決断、決定が独断、強制になっていなか、経営者が自ら問うて欲しい。